音楽再生という行為は、突き詰めれば「再現」という名の翻訳作業に他ならない。演奏家が紡いだ空気の振動を、マイクロフォンが電気信号へと翻訳し、それを記録媒体が保存する。我々オーディオファイルが対峙するのは、その暗号化された情報を再び空気の振動へと翻訳し直す、一連の装置群である。この翻訳の精度、あるいはその「解釈」の美しさにこそ、我々は心血を注ぐのだ。
しかし、もしその翻訳機が、極めて流暢でありながら、誰もが知る言語とは異なる、独自の文法で語り始めたとしたらどうだろうか。ヤマハが約半世紀の沈黙を破り、再び世に問うたフラッグシップヘッドホン「YH-5000SE」。それは、ある者には究極の写実主義と聴こえ、またある者には不可解な抽象表現と映る、恐ろしくも魅力的なパラドックスを内包した存在と言えるだろう。本稿では、この稀代の翻訳機が紡ぎ出す音の正体を、その歴史的背景から技術的特異性、そして競合ひしめく市場における存在意義に至るまで、深く掘り下げていくことにしたい。
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YH-5000SE — Overview
- メーカー / 型番 / 発売日 / 価格帯:
- 主要スペック:
- 形式: オーバーイヤー、開放型 (Over-Ear, Open-back)
- ドライバー: ORTHODYNAMIC™ (平面磁界型 / Planar Magnetic)
- 周波数特性: 5 Hz – 70 kHz
- 感度: 98 dB/mW (at 1 kHz)
- インピーダンス: 34 Ω (at 1 kHz)
- 重量: 320 g (ケーブル除く)
- 付属品: 3.5mmアンバランスケーブル (2m, 6.3mm変換アダプタ付)、4.4mmバランスケーブル (2m)、イヤーパッド2種 (シープスキンレザー, Ultrasuede®)、専用アルミニウム製ヘッドホンスタンド
- 出典:(https://usa.yamaha.com/products/audio_visual/headphones/yh-5000se/specs.html)
1. 批評の交差点:賞賛と困惑のポリフォニー
オーディオ製品の評価において、ある程度の意見の相違は常である。しかし、YH-5000SEほど評価が二極化する製品は、近年稀に見る現象ではなかろうか。それは単なる好みの問題を超え、何を以て「良い音」とするかという、リスナーの哲学そのものを揺さぶる。
メディア | 引用抜粋 (和訳+原文) | 評価点 |
---|---|---|
What Hi-Fi? | ”並外れたパフォーマー… これまでこのレベルでは出会ったことのない深みのある能力で、その価格を正当化する。” / “Exceptional performers… justify that price with a depth of ability that we haven’t come across at this level before.” 10 | ★★★★★ |
The HEADPHONE Community | ”極端な高域の伸び、繊細さ、エネルギー、空気感… 弱点を挙げるとすれば、ステージの幅とサブベースのインパクト。” / “extreme treble extension, delicacy, energy, and air… To briefly address its weaknesses, the YH5K lacks some impact in the fundamental notes (ie. sub-bass).” 11 | (評価なし) |
Audio Science Review | ”客観的に見て、YH-5000SEは音色と透明性(歪み)の両方において非常に欠陥がある。” / “Objectively, the YH-5000SE is very flawed both in tonality and in transparency (distortion).” 12 | (評価なし/Poor) |
thinking-audio.com | ”製品として出してはいけないレベルで超高域ノイズを拾う。ここまで行くと個性とは言えず、ただの瑕疵でしかない。” 13 | (評価なし/酷評) |
Reddit User “The_D0lph1n" | "私が今まで聴いた中で最も奇妙なヘッドホンだったが、そのチューニングの一部はまだ好きだった。” / “The YH-5000 was the weirdest headphone that I’ve ever heard, yet I still liked some parts of its tuning.” 14 | (評価なし/賛否両論) |
集計: 調査した主要なレビューソースにおいて、評価は明確に分断されている。What Hi-Fi?に代表される英国系の伝統的オーディオメディアは、その音楽的な表現力とディテールを絶賛し、最高評価を与えている 10。これらのレビューはメーカー貸与品に基づくものが多く、製品の持つ芸術性に焦点を当てる傾向が見られる。一方で、Audio Science Review (ASR) のような測定値を重視するコミュニティや、システム全体の整合性を追求する一部の日本の個人レビュアーからは、技術的な欠陥を指摘する声が極めて強い 12。彼らは特異な周波数特性や歪み率、特定の環境下で顕在化するノイズ感受性を「設計上の問題」と断じている。
この評価の乖離は、オーディオにおける二つの異なる価値観の衝突を象徴していると言っても過言ではない。一つは、測定データよりも聴感上の「音楽性」や「魅力」を優先する伝統的な主観主義。もう一つは、目標カーブへの準拠や低歪みといった客観的な指標を絶対視する科学的客観主義である。YH-5000SEは、この二つの思想の境界線上に立ち、我々一人ひとりにその立ち位置を問うてくるリトマス試験紙のような存在なのだ。
2. オルソダイナミックの系譜:過去から未来への技術的探求
YH-5000SEを理解するためには、まずその血統を遡らねばならない。このヘッドホンは、真空から生まれた突然変異ではなく、ヤマハが1970年代にオーディオ界に投じた一石、伝説的な「HP-1」の直系の子孫であるからだ 15。
過去からの啓示:HP-1の遺産
1976年、ヤマハは「ORTHODYNAMIC™」と名付けた独自の平面磁界型ドライバーを搭載したHP-1を発表した 15。それは、静電型に匹敵する繊細さと、ダイナミック型の使いやすさを両立させるという野心的な試みであり、現代のハイエンド平面磁界型ヘッドホンの源流の一つとして歴史にその名を刻んでいる 17。YH-5000SEの開発は、ヤマハ社内の倉庫でHP-1の古い設計図が発見されたことから始まったという逸話が、その物語性を一層強めている 3。これは単なる復刻ではなく、46年の時を経てブランドの音響哲学を現代に再定義する、壮大なプロジェクトなのである。
技術的洗練:現代に蘇る心臓部
YH-5000SEの心臓部であるオルソダイナミック・ドライバーは、HP-1の思想を継承しつつ、現代の技術と素材科学によって全面的に再設計されている 19。
- 超軽量・薄膜振動板: 独自のパターンでボイスコイルをエッチングし、微細なコルゲーション(波形)加工を施した極薄のフィルム振動板は、驚異的な応答速度を実現する。これにより、音楽のダイナミクスの最も微細なニュアンスさえも忠実に再現することが可能になった 21。
- 中央固定構造の排除: 従来の平面磁界型ドライバーにしばしば見られた振動板中央の固定構造を完全に取り払った。これにより、振動板全体がより自由にストロークできるようになり、不要な共振を低減させ、豊かで歪みのない低域表現を獲得した 19。
- 筐体と素材の哲学: YH-5000SEの設計思想は、ドライバー単体の性能追求に留まらない。実用金属中、最高の振動減衰率を誇るマグネシウムをハウジングフレームに採用し、320gという驚異的な軽さと高い剛性を両立させた 8。この「軽さ」は単なる快適性のための仕様ではなく、設計思想の核そのものである。軽量な筐体は、安定した装着に必要な側圧を低減させ、長時間のリスニングを可能にする。この「持続可能性」への配慮こそ、他の多くのフラッグシップ機が見過ごしてきた視点ではなかろうか。
さらに、ハウジング内部には日本製圧延平畳織ステンレスフィルターやアーチ状の音響リフレクターといった、緻密な音響制御機構が組み込まれている 20。これらは、軽量なドライバーと筐体が可能にする素早い応答性を、音楽的に破綻させないための巧みなチューニング機構として機能している。そして、この精緻なアセンブリが、ヤマハが世界に誇るフラッグシップ・グランドピアノと同じ掛川工場で、熟練の職人の手によって行われているという事実が、本機が単なる工業製品ではなく「楽器」として生み出されたことの何よりの証左である 2。
客観的測定値との対話:設計思想と物理法則の狭間で
しかし、この意欲的な設計は、客観的な測定データという冷徹な鏡に映し出された時、いくつかの深刻な疑問符を投げかける。特に、測定値を重視するコミュニティであるAudio Science Review (ASR) が公開したデータは、YH-5000SEの音響特性がいかに異端であるかを浮き彫りにしている 12。
まず周波数特性だが、これは凡そ「フラット」や「ニュートラル」といった言葉とは無縁の世界を描き出す。1kHzから1.5kHzにかけての鋭いピーク、そしてそれに続く2kHzから5kHzにかけての深く、不規則に刻まれた谷は、一般的なハイファイヘッドホンの目標カーブから著しく逸脱している 12。この特異な形状こそが、後述する聴感上の「遠いのに近い」と評される奇妙な中域の正体であり、設計上の意図か、あるいは妥協の産物なのか、議論の的となっている。
さらに深刻なのは歪み率(THD)である。94dBSPLという標準よりやや高めのリスニングレベルですら、2-3kHz帯に共振を示す狭いピークが見られる 12。そして、114dBSPLという大音量でのスイープテストでは、測定するまでもなくカップの後方から聴き取れるほどの激しい歪みが発生したと報告されている 12。これは、超軽量振動板が物理的な限界を比較的低いレベルで迎えてしまうことを示唆しており、軽量設計と引き換えにダイナミックレンジの頂点が犠牲になっている可能性を否定できない。この共振点は、乱れたグループディレイの測定結果とも一致しており、複数の音源が混ざり合っていることを示唆している 12。
一方で、インピーダンス特性は平面駆動型として非常に典型的であり、低域の共振点を除けば、可聴域全体にわたってほぼフラットな34Ωを維持している。これは、アンプ側からは駆動しやすい負荷であることを意味するが、前述のドライバー自体の機械的な問題点を覆い隠すものではない。
結論として、ASRは「客観的に見て、YH-5000SEは音色と透明性(歪み)の両方において非常に欠陥がある」と断じている 12。これらのデータは、本機が伝統的なハイファイの価値基準、すなわち低歪みと目標カーブへの準拠という観点からは、多くの課題を抱えていることを科学的に裏付けている。この測定結果と、一部のリスナーを魅了してやまない聴感上の魅力との間に横たわる巨大な溝こそが、YH-5000SEという製品の本質を理解する上で最も重要な鍵となるのだ。
競合製品とのスペック比較
YH-5000SEの独自性は、競合製品との比較によって一層明らかになる。
モデル | 方式 | 構造 | インピーダンス(Ω) | 感度 | 重量 | 価格 (USD) |
---|---|---|---|---|---|---|
Yamaha YH-5000SE | 平面磁界 (Orthodynamic) | 開放型 | 34 | 98 dB/mW | 320 g | ~$4,999 |
Audeze LCD-5 | 平面磁界 (Planar) | 開放型 | 14 | 90 dB/mW | 420 g | ~$4,500 |
HiFiMAN Susvara | 平面磁界 (Planar) | 開放型 | 60 | 83 dB/mW | 450 g | ~$5,999 |
Focal Utopia (2022) | ダイナミック | 開放型 | 80 | 104 dB/mW | 490 g | ~$4,999 |
Meze Elite | 平面磁界 (Hybrid Array) | 開放型 | 32 | 101 dB/mW | 430 g | ~$3,999 |
出典: 6
この表が示す最も重要な事実は、YH-5000SEの圧倒的な軽さである。400gを超えるのが当たり前のフラッグシップ市場において、320gという数値は驚異的だ。ヤマハは明らかに、性能のために重さを厭わない他の多くのメーカーとは一線を画し、「長時間の快適なリスニング体験」をフラッグシップの必須要件として再定義しようとしている。この「軽さ優先」の設計哲学こそが、YH-5000SEの全ての長所と、そしておそらくは短所の根源となっているのである。
3. 音響のプリズム:聴感上の万華鏡
技術的な探求の果てに、YH-5000SEはどのような音の世界を描き出すのか。その聴感上の印象は、まさに万華鏡のように、聴く者や楽曲によってその姿を大きく変える。
レビュアー / 媒体 | 引用抜粋 (和訳+原文) |
---|---|
What Hi-Fi? | ”ヤマハのプレゼンテーションの強制感のない自然さと、すべての音符を定義する精度が大好きだ。” / “We love the unforced naturalness of the Yamahas’ presentation and the precision with which they define every note.” 10 |
MajorHiFi | ”ステージの近さが分析的な特性として機能し、YH-5000SEの卓越した明瞭さとバランスと相まって、細部まで顕微鏡で見るように映し出した。” / “The stage’s close proximity to my face felt like it worked as an analytical characteristic, that in conjunction with the YH-5000SE’s exceptional clarity and balance, threw even the smallest details under a microscope.” 9 |
The Source AV | ”他のフラッグシップヘッドホンでは分離・露呈しないディテールが、ヤマハYH-5000SEでは美しく、しかし自然に表示される。” / “Details that don’t separate or reveal themselves as well on other flagship headphones I have in-house are displayed beautifully but naturally from the Yamaha YH-5000SE.” 28 |
Reddit User “The_D0lph1n" | "中域はチューニングの中で最も奇妙な部分で、遠くて近い。歌手の声の一部が他より近くにあるようで、歌手が同時に遠くにいるようにも、私の顔の前にもいるように聞こえる。” / “The midrange is still the strangest part of the tuning where it is both distant and forward; it’s like some parts of the singer’s voice are closer than others so it sounds like the singer is simultaneously far away and in my face.” 29 |
音響特性の分析
- Soundstage: YH-5000SEが描く音場は、Sennheiser HD 800 Sのような広大なパノラマとは対極にある。多くのレビューが指摘するように、横方向への広がりは控えめだが、その代わりに驚異的な奥行きと、ピンポイントで音像を定位させる正確さを誇る 5。音は頭の周囲にコンパクトにまとまるが、各楽器のレイヤーが完璧に分離されているため、窮屈さは微塵も感じさせない。「没入感のある音のバブル」という表現が、その独特の空間描写を的確に捉えている 5。
- 高域: 本機のサウンドシグネチャーにおいて、最も賞賛を集めているのが高域表現であることは間違いない。その伸びやかさ、空気感、そして微細なディテールの描写力は、多くのレビュアーからクラス最高レベルと評価されている 9。シンバルのきらめき、弦楽器の倍音、ボーカルの息遣いが、刺々しさとは無縁の、極めて繊細な質感で描かれる。この「大胆でありながら、決して聴き手を傷つけない」高域こそが、YH-5000SEの持つ最大の魔力と言えよう 9。
- 低域: レザーイヤーパッド装着時の低域は、クリーンでハイスピード。サブベースは深く沈み込み、そのテクスチャーを克明に描き出すが、ミッドベースの量感やアタックの強さは意図的に抑えられているように感じられる 5。Focal Utopiaのような豊かで暖かい低音とは異なり、あくまで中高域の明瞭度を阻害しない、引き締まった制動の効いた低域である。スエードパッドに交換すると、全体的によりウォームでリラックスしたバランスへと変化する 5。
- 中域: そして、このヘッドホンの評価を二分する核心、それが中域である。ASRの測定が示す1.5kHz付近のピークとそれに続く谷は、聴感上、特にボーカルの表現に独特の影響を与える。一部のリスナーはこれを「メガホンのようだ」「声が遠いのに、息遣いだけが耳元で聴こえる」と評し、その不自然さを指摘する 29。これは、声の基音となる部分が後退し、倍音成分が強調されることで生じる現象かもしれない。しかし、この人工的な音響処理こそが、YH-5000SEの驚異的な分離感と奥行き感を生み出している根源でもあるように思われる。つまり、ヤマハは音色の自然さをある程度犠牲にしてでも、空間表現とディテール再現性という特定のパラメータを最大化するという、極めて大胆な音響的ギャンブルに打って出たのではなかろうか。この意図を芸術的野心と見るか、技術的逸脱と見るかで、評価は180度変わるだろう。
重大な懸念:超高域ノイズ感受性
ここで、看過できない重大な問題を指摘せねばならない。日本のレビュアーthinking-audio.comは、YH-5000SEがシステムの超高域ノイズに対して極めて敏感であり、特にクリーンな電源環境でない場合や特定の音源(ピアノなど)において、音楽鑑賞を妨げるほどのノイズを拾ってしまうと厳しく報告している 13。これは他の海外レビューではほとんど言及されていない点であり、使用するオーディオシステムの質、特に電源環境に大きく左右される問題である可能性が高い。これは、本機の購入を検討する上で、極めて重要な注意喚起と言えるだろう。
4. 評価
これまでの分析を踏まえ、YH-5000SEを5つの評価軸で採点する。
評価軸 | 採点 (5点満点) | 解説 |
---|---|---|
技術性能 | 3.0 | 応答速度、解像度、そして320gという革新的な軽量設計は比類ない。しかし、測定で示された高い歪み率と特異な周波数特性、そして報告されているノイズ感受性は、フラッグシップとして看過できない技術的課題を示唆する。 |
音楽的魅力 | 4.0 (条件付き) | その唯一無二の高域表現とディテール描写は、特定のジャンルやリスナーに深い感動を与えるポテンシャルを秘めている。しかし、音色の特異性から、多くの音楽で不自然に響くリスクも併せ持つ、極めてリスナーを選ぶ音。 |
ビルドクオリティ | 4.0 | マグネシウム筐体や掛川工場での生産は高品質を物語る 8。しかし、一部レビュアーからは価格に見合う高級感や耐久性に欠けるとの指摘もあり 5、Focal Utopiaのような重厚な作りとは対照的。 |
価格対価値 | 2.5 | 約60万円という価格帯には、より万能で、技術的にも安定した競合製品が多数存在する。このヘッドホンの価値は、その特異な音響体験にどれだけ魅了されるかに完全に依存する。汎用性を求めるならば、価値を見出すのは難しいだろう。 |
将来性 / 修理性 | 4.5 | ヤマハという大企業による製品であり、長期的なサポートが期待できる。また、イヤーパッドやケーブルが着脱式であることから、基本的なメンテナンス性は確保されている。 |
Bias Check: YH-5000SEの評価は、その長所と短所が表裏一体となっている。驚異的な軽さと快適性 9、クラス随一の高域の空気感と解像度 10 は紛れもない美点である。しかし、その代償として、物議を醸す中域のチューニング 14、測定上の高い歪み 12、そして潜在的なノイズ問題 13 という無視できない短所を抱えている。
通常のフラッグシップ製品において、高い価格は技術的な完成度と汎用性の高さを保証する。しかし、YH-5000SEの価値命題は、その逆を行く。ここで支払われる対価は、汎用性ではなく「特殊性」であり、万人向けの完成度ではなく、ある特定の美学に特化した「個性」である。それは、プロフェッショナルが求める普遍的なリファレンスツールではなく、ある特定の味覚を持つ美食家のためだけの、希少な食材に近い。その価値は、客観的な指標では測り得ないのだ。
5. 座標軸上の孤高:ハイエンド市場におけるYH-5000SEの存在意義
現代のハイエンドヘッドホン市場は、ある種の「正解」へと収斂しつつあるように見える。Harman Targetに代表される、科学的に導き出された周波数特性を一つの理想とし、多くのメーカーがその周辺で個性を競い合っている。その潮流の中にあって、YH-5000SEは意図的にその「正解」から距離を置いているように見える。これは、ヤマハの「True Sound」哲学 1 に基づく、一種の芸術的ステートメントではなかろうか。
競合機との対峙
- vs. Focal Utopia (2022): Utopiaがダイナミックドライバーならではのダイナミズムと芳醇な音楽体験を提供するのに対し、YH-5000SEは平面磁界型らしいクールで分析的な視点を提供する。Utopiaがコンサートホールの最前列の興奮を届けるなら、YH-5000SEはレコーディングスタジオのコンソール前で、音の構造そのものを顕微鏡で覗き込むような知的な興奮を与える。重量はUtopiaが490gであるのに対し、YH-5000SEは320gと、快適性ではヤマハが圧倒する 30。
- vs. Audeze LCD-5: LCD-5は、中域の正確性と解像度を極限まで追求した、プロフェッショナルなモニタリングツールとしての性格が強い。YH-5000SEは、LCD-5よりも低域と高域に独自の色彩を与えられた、より「音楽鑑賞的」なバランスを持つ。しかし、中域の自然さにおいてはLCD-5に軍配が上がるだろう。ここでも、420gのLCD-5に対し、YH-5000SEの軽さは大きなアドバンテージとなる 28。
- vs. HiFiMAN Susvara: Susvaraは、駆動の難しさと引き換えに、到達し得る音響性能の頂点の一つとして君臨する。YH-5000SEは、Susvaraよりも遥かに現実的なシステムで駆動可能でありながら、それに迫るレベルの解像度と、独自の音響美学を提供する。それは、絶対性能の追求ではなく、リスニング体験全体の質(快適性や駆動の容易さを含む)を重視する、ヤマハらしいバランス感覚の表れと言える。
これらの比較から浮かび上がるのは、YH-5000SEがどの競合製品とも直接的には競合しない、独自の座標軸に存在するということだ。それは「究極の快適性」と「特異な高解像度サウンド」が交差する、ただ一つの点である。
そして、この製品の登場は、単体のヘッドホンにとどまらない戦略的な意味合いを持つ。YH-5000SEの発表後、ヤマハは専用設計のヘッドホンアンプ「HA-L7A」を市場に投入した 33。これは、ヤマハが長年主戦場としてきたマスマーケットやプロオーディオの領域から、再びハイエンド・パーソナルオーディオの頂点へと回帰する意志を明確に示した「ハロー効果」を狙った製品群に他ならない。物議を醸すほどの個性的なチューニングは、凡庸な優等生を送り出すよりも遥かに強くブランドの存在をオーディオファイルに刻み付ける。YH-5000SEは、音を聴かせるための装置であると同時に、ヤマハというブランドの新たな物語を聴かせるための、極めて戦略的な装置なのである。
6. 結論 & 推奨ユーザー
ヤマハ YH-5000SEは、半世紀の時を経て蘇ったオルソダイナミックの魂であり、現代ハイエンドヘッドホンへのアンチテーゼでもある。それは、万人に受け入れられることを良しとせず、特定の美意識を持つリスナーとの一対一の対話を求める、孤高の芸術作品だ。技術的な輝きと、看過しがたい癖や欠点を同時に抱えた、極めて二面性の強い製品と言えよう。その価値は絶対的なものではなく、リスナーの経験、哲学、そしてオーディオシステムそのものによって初めて定義される。
- おすすめしたい人:
- 音の探求家: Harman Targetや一般的なリファレンスサウンドに飽き足らず、他に類を見ないユニークで分析的な音響体験を求める冒険心のあるリスナー。
- 快適性至上主義者: 何時間でも音楽に没入するために、重量や側圧から解放されることを最優先するユーザー。
- システム構築の上級者: クリーンな電源と高品位な上流機器を用意し、本機のポテンシャルを最大限に引き出し、かつ潜在的なノイズ問題を回避できる自信と経験を持つオーディオファイル。
- ヤマハの歴史と哲学の収集家: HP-1から続く物語を理解し、その歴史的文脈ごと所有することに価値を見出すコレクター。
- やめた方が良い人:
- 最初のフラッグシップを求める人: 一台であらゆるジャンルを高いレベルでこなす、万能なリファレンス機を探しているユーザー。Focal UtopiaやSennheiser HD 800 Sの方が適任だろう。
- 暖かく自然な音を好む人: Meze EliteやEmpyreanのような、豊かで音楽的な暖色系のサウンドを愛するリスナー。
- プラグアンドプレイを望む人: システムとの相性を深く考慮せず、手軽に最高の音を楽しみたいユーザー。本機は、その性能を最大限に発揮するために、リスナーに相応の努力と投資を要求する。
- 将来の更新・Mod 可能性:
- 基本設計の素性は優れているため、将来的にはサードパーティ製のイヤーパッドやケーブルによって、音質のカスタマイズの幅が広がる可能性は高い。しかし、ドライバー自体の持つ強烈な個性を根本的に変えることは難しいだろう。
総合評価: ★★★☆☆
類稀なる少数派のための、欠陥を抱いた傑作 (A Flawed Masterpiece for the Fearless Few)
引用文献
1. YH-5000SE - Overview - Headphones - Home Audio - Products - Yamaha USA, https://usa.yamaha.com/products/audio_visual/headphones/yh-5000se/index.html
2. ヤマハのフラッグシップヘッドホン『YH-5000SE』が「アジアデザイン賞2024」で銅賞を受賞, https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000904.000010701.html
3. The Quest for Excellent Sound | #2 Headphones That Immerse You in Music - The Key, https://www.yamaha.com/en/stories/the-key/007-02/
4. Flagship YH-5000SE Headphones Win Bronze Award at the DFA Design for Asia Awards 2024 - News Releases - Yamaha Corporation, https://www.yamaha.com/en/news_release/2024/24110601/
5. Yamaha YH-5000SE Headphones Review - Audio46, https://audio46.com/blogs/headphones/yamaha-yh-5000se-review
6. YH-5000SE - Specs - Headphones - Home Audio - Products - Yamaha USA, https://usa.yamaha.com/products/audio_visual/headphones/yh-5000se/specs.html
7. YH-5000SE - Specs - Headphones - Products - Yamaha Music Europe, https://europe.yamaha.com/en/audio/headphones/products/headphones/yh-5000se/specs.html
8. Yamaha YH-5000SE Open-back wired Orthodynamic® headphones - Crutchfield, https://www.crutchfield.com/p_022YH5KSE/Yamaha-YH-5000SE.html
9. Yamaha YH-5000SE Review - Major HiFi, https://majorhifi.com/yamaha-yh-5000se-review/
10. Yamaha YH-5000SE review: expensive headphones, but their …, https://www.whathifi.com/reviews/yamaha-yh-5000se-headphones
11. Yamaha YH-5000SE Orthodynamic Headphones, https://forum.headphones.com/t/yamaha-yh-5000se-orthodynamic-headphones/19781
12. Yamaha YH-5000SE Flagship Headphone Review | Page 2, https://www.audiosciencereview.com/forum/index.php?threads/yamaha-yh-5000se-flagship-headphone-review.56209/page-2
13. YAMAHA YH-5000SE 無限試聴レビュー | Thinking Audio, https://thinking-audio.com/2023/04/30/yamaha-yh-5000se-review/
14. Upcoming and unannounced new Yamaha headphones. - Reddit, https://www.reddit.com/r/headphones/comments/1ji4qel/upcoming_and_unannounced_new_yamaha_headphones/
15. A Brief History of Yamaha Headphones, https://hub.yamaha.com/audio/a-history/a-brief-history-of-yamaha-headphones/
16. Flashback: How the Yamaha HP-1 Headphones Paved the Way for the YH-5000SE, https://au.yamaha.com/en/news_events/2023/hp-1_flashback.html
17. Yamaha YH-1 Orthodynamic On-Ear Headphones by Mario Bellini - Retrospekt, https://retrospekt.com/products/yamaha-yh-1-orthodynamic-on-ear-headphones
18. Yamaha HP-2: an interesting piece of vintage : r/headphones - Reddit, https://www.reddit.com/r/headphones/comments/yv10ya/yamaha_hp2_an_interesting_piece_of_vintage/
19. 50 years in the making: the inside story of the award-winning Yamaha YH-5000SE headphones | What Hi-Fi?, https://www.whathifi.com/features/yamaha-engineers-discuss-the-rewarding-yh-5000se-journey-and-future-headphones
20. Yamaha YH-5000SE Open-Back Orthodynamic Flagship Headphones - Safe and Sound HQ, https://www.safeandsoundhq.com/products/yamaha-yh-5000se-open-back-orthodynamic-flagship-headphones
21. Yamaha YH-5000SE Flagship Headphones | Unilet Sound & Vision, https://unilet.net/product/yamaha-yh-5000se-flagship-headphones/
22. Yamaha YH-5000SE planar-magnetic headphone - Zeppelin & Co, https://zeppelinandco.com/products/yamaha-yh5000se
23. Yamaha YH-5000SE Flagship Over-Ear Headphones Review | StereoNET International, https://stereonet.com/reviews/yamaha-yh-5000se-flagship-over-ear-headphones-review
24. Audeze LCD-5 High-Performance Open-Back Planar Magnetic Headphones - Hi-Fi Heaven, https://hifiheaven.net/product/audeze-lcd-5-high-performance-open-back-planar-magnetic-headphones-used/
25. HiFiMAN SUSVARA Over‑Ear Full‑Size Planar Magnetic Headphones - Hi-Fi Heaven, https://hifiheaven.net/product/hifiman-susvara-overear-fullsize-planar-magnetic-headphones-open-box/
26. Focal Utopia 2022 Open-Back Headphones - Audio46, https://audio46.com/products/focal-utopia-2022-open-back-headphones
27. Meze Audio ELITE | Open-Back Isodynamic Hybrid Planar Headphones, https://bloomaudio.com/products/meze-audio-elite-aluminum-tungsten
28. Yamaha YH-5000SE Orthodynamic Open-Back Flagship …, https://thesourceav.com/blogs/news/yamaha-yh-5000se-orthodynamic-open-back-flagship-headphones-do-they-surpass-other-current-flagship-planar-magnetic-headphones
29. Demoed some headphones at e-earphone in Akihabara (Names in captions, impressions in comments) - Reddit, https://www.reddit.com/r/headphones/comments/1hse1yv/demoed_some_headphones_at_eearphone_in_akihabara/
30. Yamaha YH-5000SE vs. Focal Utopia 2022 Comparison Review - Major HiFi, https://majorhifi.com/yamaha-yh-5000se-vs-focal-utopia-2022-comparison-review/
31. Yamaha thread, YH-5000SE / YH-4000 / YH-C3000 / HA-L7A / HA-3000A - Page 3 - Headphones - Sonus Apparatus, https://forum.sonusapparatus.com/t/yamaha-thread-yh-5000se-yh-4000-yh-c3000-ha-l7a-ha-3000a/1486?page=3
32. Yamaha YH-5000SE Review - A Half Century in the Making : r/headphones - Reddit, https://www.reddit.com/r/headphones/comments/18j20xv/yamaha_yh5000se_review_a_half_century_in_the/
33. Heavenly head-fi: Yamaha finally unveils HA-L7A headphone amp for the exceptional YH-5000SE | What Hi-Fi?, https://www.whathifi.com/news/heavenly-head-fi-yamaha-finally-unveils-ha-l7a-headphone-amp-for-the-exceptional-yh-5000se